近代世界システム論の射程

― 重商主義の位置づけをめぐって ―

中 澤 勝 三 

1.はじめに

 中世末期、とくに15世紀の半ば以降本格化してくるヨーロッパ世界の周辺、非ヨーロッパ諸地域への「進出」、ないしは「拡大」「膨張」と捉えられ、かつては「地理上の発見」と見なされてきた西ヨーロッパ勢力の対外的進出を契機とした世界的な変革について、1970年代の半ばに、これを「近代世界システム」の形成・発展のプロセスとして理論的に捉える見方が欧米において提起され、次第にそれが日本の歴史学界においても受容されるようになってきたが、その歴史把握仕方の当否は、とりわけ日本においては、これまで意外にも、さして問題とされてはこなかったように思われる(1)。ここで問題にするのは、I・ウォーラーステインによって提唱された彼の諸著作、とりわけ1974年に刊行された『近代世界システム』(2) において体系化された近代世界史の構造的把握の仕方であるが、そこで示された歴史理解が近代ヨーロッパ史の把握の仕方において多少一面的に過ぎる側面があるのではないかということである。

 ウォーラーステイン『近代世界システム』にみられる近代世界史把握の仕方はきわめて多面的、かつ雄大な内容を有するが、その叙述の特徴は、歴史学の「網羅的」ともいえる研究成果を渉漁の上で、その成果を要約・引用しつつ、自己の歴史叙述に組み込むという独特のスタイルであって、そうした主に欧米の歴史学に馴染みの薄い者にとっては、その評価が容易に下せないものである。また、それだけでなく、ウォーラーステインの叙述の運びは、その都度提起した問題を解明、位置づけしていくという方法を必ずしも採らず、自己の問題提起にストレートに答えずに、棚上げして次へ進み、その果ては問題提起とそれに対応する結論、見通しがだされないまま次に進むケースもままあり、専門的に読みこなす読者はともかくとして、読者を論述の複雑怪奇な伏魔殿に誘ってしまう。

 これまで、ウォーラーステインの「近代世界システム」論に対する論評・評価がなされ、いくつかの著作や研究が公にされてきたが、本稿では、この近代世界システム論を一つの歴史把握として受け止め(3)、その上でこれまであまり問題とされてこなかった論点、17・18世紀における英国とフランスの経済的対立を、「重商主義的」政策と近代世界システム論との関わりで論じることにしたい。結論を先取りしていえば、ヨーロッパ経済の「統合」、「一体化」という「近代世界システム」論の枢要な論点と、いわばこれに反するような政策動向を示す英国とフランス両国の海外貿易の「分断」、「分離」という側面を経済史的視点から問題にする。この点、歴史学の手法によれば、実証的に論議を進めなければならないが、ここではその余裕がないので、仮説的試論的なアプローチに止まらざるをえないことをお断りしておきたい。

注(1) 柴田三千雄『近代世界と民衆運動』(以下文献の出版社、刊行年等については末尾の参照文献を参照されたい。ただし、次の注(2)ではそれらの諸点を挙げた)は数少ない問題提起的な研究であるが、第1巻の刊行年以後出版された『近代世界システム』の2巻,3巻を対象としていない。松井『世界市場の形成』はイギリスを軸とした世界市場の形成を扱った優れた業績であるが、本稿で論じる視点とは異なった立場に立っている。他に、近藤和彦『文明の表象 英国』はすぐれた日本における西洋経済史の史学史的分析をおこなっている。

(2) I. Wallerstein, The Modern World System. Capitalist Agriculture and the Origins of the European World-Economy in the Sixteenth Century, New York, 1974. 川北稔訳『近代世界システム―農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」』岩波書店,1979-81年。id., The Modern World-System. II, Mercantilism and the Consolidation of the European World-Economy, 1600-1750, New York, 1980.川北稔訳『近代世界システム―1600 〜1750. 重商主義と「ヨーロッパ世界経済」の凝集』名古屋大学出版会、1993年(以下、2巻として言及)。id., The Modern World-System. III, The Second Era of Great Expansion of the Capitalist World-Economy, 1730-1840s, New York, 1989. 川北稔訳『近代世界システム―1730s 〜1840s.大西洋革命の時代―』名古屋大学出版会、1997年(以下、3巻として言及)。

(3) ウォーラーステインは「近代世界システム」論を必ずしも歴史学のレベルで構想しておらず、歴史学をも包含する社会科学認識の問題として捉えている。厳密に言えば、近代世界システム論は、歴史学ではなく「社会学」の領域の学問成果であるといえるが、この点の日本での認識の仕方は単純なように思われる。I. Wallerstein, The Capitalist World-Economy. Essays by Immanuel Wallerstein, vii. 日南田静真監訳『資本主義世界経済』I 。しかし、ここでは歴史学の成果としてこの「近代世界システム」論がどれほどの射程を持つものなのか、その点を問題にしたい。川北稔『ヨーロッパと近代世界』は近代世界システム論を歴史の著作として扱っている。猪口孝『社会科学入門』は、『近代世界システム』を社会学の領域に入れている。

2.近代世界システム論の特徴

 ウォーラーステインの「近代世界システム」の特徴をここでは本稿との関わり上必要な限りで採り上げる(4)。

 ウォーラーステインの近代ヨーロッパ史、およびそれを軸として展開される世界史、とりわけ世界経済史の構想の基本線は、主に欧米の経済史学と政治学の研究成果を整理した上で、世界歴史の構造を、

 (1) 統合され、一体化されたヨーロッパ「世界経済」の成立と展開、拡大という視点(5)

 それに、

 (2) 政治面における諸「国民国家」による統治の分断という視点

 以上2点から歴史叙述したものである。当然、この歴史は、ヨーロッパの歴史的空間に止まるものではなく、それに巻き込まれ組み込まれ、あるいは関与した非ヨーロッパ諸地域を含む、その意味で「世界的」「地球的」規模を有する世界史となるものであった。

 もとより、この「世界経済」は、16世紀においては、その内部に「中核」(北西ヨーロッパ沿岸部)、「半周縁」(他の西ヨーロッパ)、「周縁」(東ヨーロッパと新世界)という地域的分業構造を、各地域における、特有の労働管理様式を特徴づける地域的落差をともないつつ有するという独自の構造を持つものである。そして、2巻では、この資本主義体制について、17世紀と18世紀前半において、世界システムへの統合を強化していく過程が描かれる。

 以上はきわめて大雑把な特徴であるが、しかし『近代世界システム』の17世紀を対象とした第2巻,18世紀の第3巻が順次公刊されるにつれて、対象とする時代が新しくなると、第1巻とは違った理論的装置が登場してきた。その一つは、第2巻以降での「ヘゲモニー」論であり、覇権国家盛衰の論点である(6)。また、第二に、18世紀以降を扱う第3巻となると、「危機と収縮」の17世紀が終わって、近代世界システムの拡大、つまり1750年頃からの1世紀間における4大地域の「取り込み」という問題が浮上してくる(7)。

 ヨーロッパ「世界経済」はいつ形成されたのであろうか。この問題も未解決である。ウォーラーステインの師であるF・ブローデルのように、ヨーロッパ史学の成果を受けて「中世の世界経済」にまでさかのぼるのか(8)、あるいはウォーラーステインの言うように15世紀中葉以降の資本主義的「世界経済」の形成に軸を置くのか。この点で筆者は、「近代」的という点に留保を付けつつも、中世中期以降という歴史的連続性に留意する立場である(9)(10)。

注(4) 『近代世界システム』の特徴を論じたものとしては、柴田が最良のもの。猪口孝は、ウォーラーステインに少し距離をおいて、資本主義経済と国民国家の政治的枠組みの歴史的な整合性を論じている。ただし、猪口は本格的な世界経済の一体化を1970年代以降に置いている。猪口『世界変動の見方』。松井透『世界市場の形成』は、ウォーラーステインに触発されつつ独自の世界経済史を構想したものである。

(5) 「一体化」「統合」の意味は「システム内部での地域間分業構造の形成」、「商品連鎖」の形成という意味であり、ここでは、「豊かな交易」ではなく「嵩荷貿易」がメルクマールとなっている。『近代世界システム』3巻、157-163。

(6) ウォーラーステインの「ヘゲモニー」論は「特定の中核国家の生産効率がきわめて高くなり、その国の生産物が、他の中核諸国家においても競争力を持ちうるような状態」のことで、「世界市場をもっとも自由な状態にしておくことで、その国がもっとも大きな利益を享受できるような状態」と定義される。「世界帝国への志向」が挫折したあとの最初のヘゲモニー国家であるオランダが自由通商を国是とした理由とされる所以である。『近代世界システム』2巻、45。

(7) 「4大地域」とは、具体的には、西アフリカ、トルコ、インド、それにロシアである。ウォーラーステインによれば、1850年の時点において、東アフリカ、そして日本を含む東アジアは近代世界システムに統合されていなかったということになる。

(8) ウォーラーステインは近代世界システムについてブローデルとの関係を力説するが、ブローデルは「市場経済」と「資本主義」との位相を区別し、ウォーラーステインより、その歴史認識の仕方は複雑である。F. Braudel, Le temps du monde, chapitre I, II. 村上光彦訳『世界時間』1,2章。

(9) 中沢勝三『アントウェルペン国際商業の世界』。

(10) なお、ウォーラーステインのいう「近代世界システム」が社会科学認識の唯一の一単位であるという捉え方を相対化させる研究として、次のものを参照。高谷好一『世界単位を考える』『多文明世界の構図』。そこでは、「世界単位」という見方が提起されている。

3.世界経済と国民経済

 各国、ないし諸地域の「経済」活動が「世界経済」に統合され、またそれと同時に政治的統治が当該地域における国家主権によって「統治」、ないし「分治」されるということは論理的には矛盾する。一定の領域をなんらかの方法と手段で統治するということに経済的事象も当然含まれるわけであるから(11)。しかし、そのことを明示的に意識せずに「近代世界システム」論が立論できた背景は、以上の点(中沢のいう矛盾)をもっとダイナミックに把握し受容する  世界を国家的視点ではなく、一体的システムとして見ることの斬新さ  素地ができていたからである。ウォーラーステインは、時代が17世紀に至って本格化する国家的背景を有した経済的利害の追求政策である「重商主義」を論じながらもこの点に関する考察を意識的に避けたのではないか(12)。重商主義的政策は国家が総力をあげて国力を増進する政策であり、その究極の目的は、対外的市場の確保と国力の基をなす自国の広範な経済の発展であった。ウォーラーステインも言うように、重商主義は「経済のナショナリズム」economic nationalismである(13)。

 ところで、国民経済の成立は、経済的事象がコスモポリタンなボーダレスな商取引から、それに境界をつけ(国境)、その内部と外部間の商取引を「貿易」として編成し直し、規制し、国境内部の領域の経済活動とそれ以外のそれとを区別し、差異化する行為を前提とするものである。経済を国民化していくプロセス(14)が先行する。つまり、近代世界システムの中核部においては、国家間の生存競争の果てに、経済的事象、経済活動が「国家的」色彩を帯びることとなり、その意味で国家機構の経済活動に対する効率的干渉が進むほど、当該国家の近代世界システム、世界経済への統合の度合いは制約されることになる。それが最も端的に表れるのが、17・18世紀の競合国家である英国とフランスとの間であったというのが本論文の基本的立場である(15)。

 国民国家とは何なのか。そして、国家とかナショナリズムが論じられる際に、当然問題となる「国民経済」とは何なのか。国境で仕切られ、国家と国家との間で営まれる商取引を「貿易」として再編成したとき、国境の内部での経済を「国民経済」というのであろうか。世界経済と国民経済の「統合」を短絡的に位置づけられないのは、近代世界システム論の中枢部における国家と経済について、「重商主義」として論じられる問題が存在するからである。

注(11) 少なくとも、国家主義 statismが極限にまで達した段階においては、国家は、政治、経済にとどまらず、宗教や言語、時間や社会規範にまで人間活動のあらゆる局面にまで干渉するようになる。西川を参照。ただ、個々の国家によってそれぞれの歴史的局面において、それぞれの国家がどう経済的事象に関与したか一律には論じられない。K・ポランニーは、非競争的な二つのタイプの商業を分離している障壁を破壊する点で、都市と農村の区別を排除していく重商主義の力学を強調している。吉沢英成他訳『大転換』86-7。

(12) 16世紀についてであるが、ウォーラーステインは国家機構の運営者である国王が権力を強化した方法として、官僚制の整備、武力の独占、合法性の主張、国民の均質化の4つをあげ、直接的には経済事象の掌握を挙げていない。『近代世界システム』I,206。

(13) 『近代世界システム』2巻、44。

(14) 個別的事象は挙げられているが、国家が経済を「国民化」し掌握していくプロセスは、16・17世紀において実証的にも分析されるべき今後の課題である。

(15) 筆者の「重商主義」像はかつてこれを論じたときよりも、やや拡大した。「固有の」重商主義をのみ狭く重商主義と規定せず、コルベール主義を含む「重商主義」的政策をも重商主義としたい。中沢「原始蓄積の一局面  重商主義・国民経済の形成」。ウォーラーステインも「イギリスは強力に重商主義政策を展開し」たといっているが、国民経済の形成という視点での「世界経済」との関係は希薄である。『近代世界システム』I,133,137.

4.英仏の競合と近代世界システム

 (1) 17・18世紀英仏の競合

 英国とフランスは、近代ヨーロッパ政治史の対抗軸として熾烈な競合を演じた当事者である。それは、1689年から1815年までの「第二次英仏百年戦争」(16) という表現に端的に象徴されている。この時代のヨーロッパを特徴づけるのは、諸国家体系の形成と国家間の相剋であり、中核部において形成された強力な国家機構を整備した国家間のヘゲモニー争奪の戦いである。それら諸国家が国力の強化を図るために打ち出された政策が「重商主義」的政策にほかならない(17)。17・18世紀を戦争の時代と呼ぶのはこうした重商主義的政策を遂行する強力な国家が現実の戦争を伴いつつ経済戦争を遂行する時代であったからである。

 これら強力な諸国家のうちで、対立の三極をなしたのが17世紀のヘゲモニー国家オランダ、英国、そしてコルベール時代、及びそれ以後のフランスである。英国とフランスは、自由な通商の利益を享受するオランダを17世紀後半以後追い落としにかかる。それを如実に物語るのが、1651年のイギリス航海条例の発布とそれに端を発した1652年以後1674年まで3次にわたって繰り広げられる英蘭戦争であり、またルイ14世による対オランダ戦争である。17世紀後半の度重なる英仏との戦争によってオランダはその経済的通商上の繁栄の土台を突き崩されていった。オランダをヘゲモニー的地位から追い落とした末に、次に登場してくるのが17世紀末以後の英国とフランスの残った強国同士の激突である。この英仏両国がオランダを打ち負かして互いをライバル視するようになるのは、1680年代のことであるという(18)。

 これより少し前、1660年頃からからイギリスとフランスは通商的対立が激化し始める。イギリスは1649年にフランス産のワイン、毛織物、絹製品の輸入を禁止し、1663年には穀物の輸入関税率を大幅に引き上げた。イギリスの輸入関税率は1690年から1704年の間に4倍に跳ね上がり、1690年代にイギリス保護主義政策が開始された。こうした関税政策による通商規制と並んで、海運政策も航海条例(Navigation Act) が1651年、1660年と発布された。1660年の航海条例は、その前文において、「わが国船舶の増加と海運の発展のために、…アジア、アフリカあるいはアメリカにおいて、(わが国領土へ)輸入され、またはそこから輸出されるいかなる財貨または商品も、(わが国)人民の所有する船舶…であって、その船長および少なくとも船員の4分の3がイギリス人である船舶にのみ、よるべき」(括弧内引用者)ものと命じ、またフランス船による輸入品にトン当たり5シリング支払うように定めた(第17条)。このように航海条例はオランダの海運力を削ぐことを目的としていただけでなく、対フランスに向けての政策でもあった(20)。

フランスでは、それまでの低率関税政策から1640年頃に外国産毛織物の輸入禁止政策に転換する。イギリス、オランダなどに対して「輸入禁止的高率関税」を設定した。1660年代には、その推進者の名前を取って「コルベール体制」が確立する(21)。このころフランスのカリブ海貿易が飛躍的に発展し始めた(22)。

 こうしたいわゆる重商主義戦争の到来について、ウォーラーステインは、重商主義を、「「経済上の国民主義」ともいうべき国家の政策を含むもの」とし、地金、あるいは貿易差額何れの点にせよ、「商品流通への関心を中心」にしたものと定義している(23)。ここで彼は重商主義時代を通説にしたがって、1600年から1750年までの期間としているが、その前半がオランダのヘゲモニーの時代であったということは、オランダが自由通商を標榜し、その意味で保護主義等の重商主義的政策をおこなわなかったことからして逆説的といえよう。重商主義的政策はオランダに対抗するイギリスとフランスが打ち出した政策であった。

 イギリスは、1640年頃以後、とりわけ1660年以後恒常的な海運政策に関する委員会を設置し始めた。R・コンケストは、こうした関心が「貿易の発展にとって決定的であった」と論じている。商業的、通商上の問題を扱う常設された官僚機構の出現が庶民院や上院内に置かれた委員会としてではなく、常設機関の設置を彼は大きく評価している(24)。彼はまた、イギリスが、「英国の通商の長期的な拡大と繁栄を確保する慎重に明白な経済的な目的を以って」戦争に突入するようになったのは、1650年ころ以後のことだというのである(25)。この時期は、周知のようにイギリスはピューリタン革命期(1642年−1660年)を挟んでいるが、ミンチントンは、王政復古期の1660年代から1680年代中頃の期間に輸出額が410万ポンドから650万ポンドへ1.5倍の上昇を示したという(26)。

注(16) Jean Meyer et John Bromley, ‘La seconde guerre de Cent Ans (1689-1815)’.

(17) 文献は枚挙に暇ないが、中沢の認識として、中沢「原始蓄積の一局面」。Coleman, ed., Revisions in Mercantilism.

(18) 『近代世界システム』2巻。英仏両国が相互に敵対しあう前に、両国がライバルとして相対したのはオランダ共和国であった。この点、E.ウィリアムズ、11章を参照。

(19) 中沢「原始蓄積の一局面」168. R. Davis, ‘The rise of protection in England, 1689-1786’, 306.

(20) 浜林他編『原典イギリス経済史』201-3。J. Thirsl and J. P. Cooper, ed., 17th Century Economic Documents, Oxford, 1972, 520-524.; R. Davis, ‘English foreign trade, 1700-1774’, 115.

(21) 服部、30-31。Deyon, Amiens, capitale provinciale, 150-153.

(22) ウィリアムズ、『コロンブスからカストロまで』I 、206。

(23) 『近代世界システム』2巻、44-45。

(24) R.Conquest, ‘The State and commercial expansion’, 159-160.

(25) ibid., 171.

(26) Minchinton, The Growth of English Trade, 12.

(2) 重商主義政策と英仏2大システム

では、イギリスのこの時期の対外貿易で対フランス貿易はどれほどの比重を占めたのであろうか。17・18世紀のイギリスの外国貿易については、有名なR.ディヴィスの統計データ(27) があるが、これでは残念ながら北西ヨーロッパとの貿易データしか得られない。対フランスとの間の貿易資料は管見の限りではE.B.シュンペーターの『英国海外貿易統計1697年−1808年』(28) にみられる18世紀のデータが使用可能である。それを次に示す

表1. イングランド・ウェールズの輸出先(年平均価格、再輸出を含む)(単位 千ポンド)

1701 -1705 1706 -1710 1711 -1715 1716 -1720 1721 -1725 1726 -1730 1731 -1735 1736 -1740 1741 -1745 1746 -1750
東インド 113 88 100 87 113 112 154 262 455 522
英領西インド 305 322 393 430 471 473 383 494 728 732
大陸植民地(アメリカ) 259 276 335 396 436 507 568 724 738 971
カナダ・ニューファンドランド 9 12 10 10 15 17 27 34 33 54
ブリティッシュ諸島 8 15 38 39 34 39 56 98 85 44
アイルランド 248 250 332 365 471 506 645 690 790 955
アフリカ 97 67 66 100 190 198 161 207 130 180
フランドル 67 96 297 221 200 230 243 337 323 250
フランス 45 14 132 141 217 228 241 365 244 278
ドイツ 908 1034 806 972 1005 1168 1080 1142 1456 1508
オランダ 2048 2246 2214 1827 1908 1844 1877 1857 2252 2557
デンマーク・ノルウェー 47 40 45 114 84 59 60 60 72 79
東欧 135 95 68 83 107 133 119 131 167 136
スウェーデン 59 53 39 32 41 30 23 26 24 41
ロシア 102 163 86 89 53 32 45 52 76 97
ポルトガル 610 652 638 695 811 914 1024 1164 1115 1114
スペイン 120 166 406 428 582 632 780 702 87 702
海峡 272 255 367 417 497 510 714 689 519 612
イタリア 136 153 200 160 128 117 133 142 99 164
トルコ 164 205 195 248 204 209 195 160 90 143
ヴェネツィア 27 31 27 39 25 18 15 11 10 13
総額 5779 6233 6794 6893 7592 7976 8543 9347 9493 11152
フランスの比率 0.80% 0.20% 1.90% 2.00% 2.90% 2.90% 2.80% 3.90% 2.60% 2.50%

表2. 以下、輸出総額とそれに対するフランスの比率のみ

1751 -1755 1756 -1760 1761 -1765 1766 -1770 1771 -1775 1776 -1780 1781 -1785 1786 -1790 1791 -1795 1796 -1800
総額 12785 12153 14436 14029 13692 11792 12653 16778 23011 32254
フランスの比率 3.60% 0.90% 1.10% 1.40% 1.70% 0.60% 1.50% 5.80% 2.30% 0.10%

もとより、この統計データには密貿易や税関等における不正によって取引される商品貿易は含まれない。関税率が高かったこの時代には密貿易の誘因(29) が大きかったからである。イギリスの対フランス貿易には、先に述べたような貿易そのものを禁止する規制も多々あったわけであるが、しかしそれにしても、イギリスとフランス間の輸出貿易は他の、例えばオランダとの貿易(約30%)と比較した場合、あまりにも低額であると言えるのではないだろうか。18世紀半ばにおいては、イギリスの対フランス輸出は総額の約1%未満から4%の範囲に収まるのである。これは、次のフランスからの輸入貿易についてもいえることである。国別の貿易品目の価額構成は不明なので、フランス向け輸出の品目構成は知ることが出来ない。なお、ここでは、紙幅の関係で1750年までのみしか地域別の輸出額を示していない。1786年以後になると、英仏通商条約の締結によって一時百万ポンドに近づくが、フランス革命によって再び貿易の途絶状態が復活する。

 次に、フランスからイギリスへの輸入貿易を見よう。

表3. イングランド・ウェールズの輸入先(年平均価格、再輸出を含む)(単位 千ポンド)

1701 -1705 1706 -1710 1711 -1715 1716 -1720 1721 -1725 1726 -1730 1731 -1735 1736 -1740 1741 -1745 1746 -1750
東インド 551 414 735 742 936 988 996 947 994 959
英領西インド 609 634 779 1047 1107 1358 1379 1326 1244 1344
大陸植民地(アメリカ) 264 267 337 448 454 583 521 714 735 683
カナダ・ニューファンドランド 22 14 17 21 30 46 47 52 48 47
ブリティッシュ諸島 22 35 23 22 20 20 25 53 54 51
アイルランド 294 287 320 404 350 308 362 396 680 544
アフリカ 19 9 17 24 40 41 50 55 26 18
フランドル 16 3 18 32 90 94 136 182 148 45
フランス 40 - 36 60 50 43 52 77 45 31
ドイツ 655 555 390 635 665 696 771 704 717 691
オランダ 562 615 531 545 551 592 510 481 415 458
デンマーク・ノルウェー 74 75 78 95 97 103 97 89 88 96
東欧 154 126 125 130 157 238 197 227 230 269
スウェーデン 195 182 176 87 168 167 191 209 185 183
ロシア 128 120 163 200 177 206 266 299 292 391
ポルトガル 242 240 252 349 387 359 326 301 429 324
スペイン 168 196 320 281 424 434 498 416 64 251
海峡 - 7 17 30 81 129 143 90 22 53
イタリア 246 163 280 444 456 447 449 387 524 495
トルコ 264 242 321 300 288 296 227 175 164 164
ヴェネツィア 45 43 48 49 48 53 47 45 47 33
総額 4570 4227 4983 5945 6576 7201 7290 7225 7151 7130
フランスの比率 0.90% 0.00% 0.70% 1.00% 0.80% 0.60% 0.70% 1.10% 0.60% 0.40%

表4. 以下、輸出総額とそれに対するフランスの比率のみ

1751 -1755 1756 -1760 1761 -1765 1766 -1770 1771 -1775 1776 -1780 1781 -1785 1786 -1790 1791 -1795 1796 -1800
総額 8235 10009 8297 11831 14187 10401 11963 15921 18294 22821
フランスの比率 0.70% 0.00% 0.60% 0.90% 0.40% 0.30% 0.70% 3.00% 1.50% 0.20%

 イギリスのフランスからの輸入について見ると、輸出についてよりもより一層少額、かつ低率であることがわかる。本表で見るかぎり、18世紀前半において1パーセントに達している時期が2つしか見られない。ドイツやオランダからの輸入と対比した場合、とくにその額の小さいのが際立つ。これも、1785年まで同水準で推移し、1786年に突如として5倍に跳ね上がる。これは、自由貿易を標榜したイーデン条約(英仏通商条約)の締結によるものである。

 フランス側から見た18世紀の対イギリス貿易の比率は服部春彦の示したデータがある(30)。それによると、フランスにとってイギリスは、イギリスにとってのフランス貿易の比重よりは多少高いものであったことが分かる。フランスからイギリスへ向けての輸出の比率は、18世紀30年代までは10パーセント程度で推移し、その後4〜7パーセントに低落する。イギリスからの輸入は総体的にはもっと低く革命期まで10パーセントを超えることはない。個別商品についての詳細なデータはみられないが、当時の貿易のなかで重要な意味をもつ繊維製品については、1776年のデータがあるが、それによると、フランスの対イギリス貿易は輸入が繊維製品の0.01パーセント、輸出は、1750年で1.3パーセントに過ぎないのである。18世紀に入ると、イギリス製繊維製品のフランスへの輸入は事実上途絶するまでになったという(31)。イギリスは、1678年フランス産のあらゆる重要商品の輸入禁止を決定したのである(32)。

 以上のような英仏両国間の貿易規制は、ヨーロッパ内の貿易統制に止まらず、当時隆盛に向かいつつあった植民地貿易、とりわけ西インド、カリブ海域植民地の争奪とそこでの砂糖栽培、また植民地貿易の確保に及んでいった。

フランスにとって植民地貿易はどのような意味を持つものであったろうか。18世紀に入って、フランスのアンティル諸島の砂糖貿易は、飛躍的に発展していく。とりわけ、1735年以降の20年間はフランス商業の「黄金時代」となる。この背後にフランス重商主義政策の支柱ともいえる排他制exceptionalismがあったことは、重要である(33)。

 ともあれ、こうしてヨーロッパの政治的覇権を争奪しあうほどの大国の間での2国間貿易は途絶した状態を示すのである。本稿で対象としたデータは、実証的データとしては、先に述べたように不十分な性格を持つ史料ではあるけれども、以上のデータが示す歴史的実態の意味するところは大きい。つまり、18世紀の前半という時代についてみた場合、英国とフランスとは、それぞれ別個に対外交易・対植民地貿易をおこないつつ、別個の対外交易圏を形成しつつあったのではないだろうか。その点の実証は不十分であることを認めつつも、ここにイギリス交易圏とフランス交易圏ともいうべき2つの小「世界経済」が独自の、そして相対峙しあう世界を構成しつつあったのではないだろうか。つまり、「統合」されつつある、「一体化」しつつあるヨーロッパ「世界経済」をこの時代について構想しうるのであろうか。さらに、このことは重商主義について、とりわけその対外交易における位置づけを再検討させるものではないだろうか。以上のような検討材料を提供してみたのである。ウォーラーステインのいう「近代世界システム」が経済史的意味づけを主張するのであればこの問題に答えなければならないであろう。

注(27) R. Davis’ English foreign trade, 1699-1774.

(28) Elizabeth B. Schumpeter, ed., English Overseas Trade, 1697-1808.

(29) 当時の密貿易の横行とその実態についての興味深い記述として、千葉治男『義賊マンドラン』。また、Cole, ‘The arithmetic of eighteenth-century-smuggling’.

(30) 服部『フランス近代貿易の生成と展開』62-3。

(31) 服部、前掲書、31、57、72。P. Deyon, Amiens. Capitale provinciale, 150-3.

(32) 山之内「国民経済の構造変革」159.

(33) イギリスについては、川北『工業化の歴史的前提』を参照。フランスのアンティル諸島との植民地貿易の隆盛については、 Butel, ‘France, the Antilles, and Europe’, 153. 排他制とは、植民地と本国間の交易について、本国の独占をおこなう制度であって、植民地は他国の植民地間の取引を禁じられた。1660年以後本格化した。これについては、M. Mourre, Dictionnaire encyclopedique d’histoire の「排他制」exclusifの項目参照。J. Tarrade, Le commerce colonial de la France a la fin de l’Ancien Regime, I, 83ff. それに、A. T. Bushnell, ed., Establishing Exceptionalism: Historiography and the Colonial Americas.

5.まとめ

 ウォーラーステインの提起した「近代世界システム」論においては、世界の「一体化」という論点が提示され、さまざまな世界歴史の考え方のなかで、いわば主流的潮流を占めるようになったといっていいが、しかし、そこでは一国的史点が排除されるあまり、それに引きずられて、国家形成の経済的視点がやや後景に追いやられているように思われる。近代前期から19世紀にかけてのナショナリズムの時代に、国家と経済の論点を「近代世界システム」との関わりで、重商主義と一体的な「世界経済」の関わりを試論的に英国とフランスの対外貿易という観点から考察した。

6.参照文献

(1) F. Braudel, Le temps du monde. Civilisation materielle, economie et capitalisme XVe-XVIIIe siecle, tome 3, 1979.村上光彦訳『世界時間』1,みすず書房,1996年。

(2) A. T. Bushnell, ed., Establishing Exceptionalism: Historiography and the Colonial Americas, An expanding World, 5.

(3) P. Butel, ‘France, Antilles, and Europe in the seventeenth and eighteenth, centuries: renewals of foreign trade’, in: J. D. Tracy, ed., The Rise of Merchant Empires. Long-distance trade in the early modern world, 1350-1750, Cambridge, 1990.

(4) C. W. Cole, French Mercantilism: 1683-1700, New York, 1943, rep. 1971.

(5) W. A. Cole,‘The arithmetic of eighteenth-century-smuggling’, in: Economic History Review, 2nd. ser., 28(1975).

(6) D. C. Coleman, ed., Revisions in Mercantilism, London, 1969.

(7) R. Conquest, ‘The state and commericial expansion: England in the years 1642-1688’, in Journal of European Economic History, 14, 1985.

(8) R. Davis, ‘English foreign trade, 1660-1700’, Economic History Review, 2nd. ser., VII, 1954,; reproduced in W. E., Minchinton, ed., The Growth of English Overseas Trade in the seventeenth and eighteenth Centuries, London, 1969.

(9) R. Davis, ‘English foreign trade, 1700-1774’, in Eco. HR., 2nd. ser., XV, 1962.; reproduced in Minchinton, ed., op. cit.

(10) P. Deyon, Amiens. Capitale provinciale. etude sur la societe urbaine au 17e siecle, Paris, 1967.

(11) E. Heckscher, Mercantilism, London, 2vols, 1935, rev. ed., 1955.

(12) Jean Meyer ey John Bromley, ‘La seconde guere de Cent Ans (1689-1815), in: F. Bedarida, F.Crouzet, D. Johnson ed., De Guillaume le conquerant au Marche commun. Dix siecles d’histoire franco-britannique, Paris, 1979.

(13) W. E. Minchinton, ed., The Growth of English Overseas Trade in the 17th and 18th Centuries, London, 1969.

(14) M. Morineau, ‘La balance du commerce franco-neerlandais et le resserrement economique des Provinces-Unies au XVIIIe siecle’, in: Economisch-Historisch Jaarboek, 30, 1965.

(15) M. Mourre, ed., Dictionnaire encyclopedique d’histoire, Paris, 1978.

(16) M. Priestley, ‘Anglo-French trade and the unfavourable balance controversy, 1660-1685’, in: Economic History Review, 2nd. ser., 4(1951).

(17) E. B. Schumpeter, with an introduction by T. S. Ashton, English Overseas Trade Statistics 1697-1808, Oxford, 1960.

(18) J. Tarrade, Le commerce colonial de la France a la fin de l’Ancien Regime. L’evolution du regime de <<l’Exclusif>> de 1763 a 1789, I, Paris, 1972.

(19) D. Tracy, ed., The Rise of Merchant Empires. Long-distance trade in the early modern world 1350-1750, Cambridge Univ. Press, 1990.

(20) 猪口孝『社会科学入門』中央公論社、1975年。

(21) 猪口孝『世界変動の見方』筑摩書房、1994年。

(22) E.ウィリアムズ、川北稔訳『コロンブスからカストロまで』I,岩波書店、1978年。

(23) 川北稔『工業化の歴史的前提』岩波書店,1982年。

(24) 川北稔『近代世界とヨーロッパ』日本放送出版協会,1997年。

(25) 近藤和彦『文明の表象 英国』吉川弘文館,1998年。

(26) 柴田三千雄『近代世界と民衆運動』岩波書店,1980年。

(27) 高谷好一『新世界秩序を求めて』中央公論社、1993年。

(28) 高谷好一『多文明世界の構図』中央公論社、1997年。

(29) 千葉治男『義賊マンドラン』平凡社、1980年。

(30) デーヨン、『重商主義とは何か』晃洋書房、1981年。

(31) 中沢勝三「ヨーロッパ原始蓄積の一局面―重商主義・国民経済の形成―」吉原泰助他編『資本論の分析2』(講座資本論の研究3)、青木書店、1982年。

(32) 中沢勝三『アントウェルペン国際商業の世界』同文舘,1993年。

(33) 西川長夫『地球時代の民族=文化理論』新曜社、1995年。

(34) 服部春彦『フランス近代貿易の生成と展開』ミネルヴァ書房

(35) 浜林正夫他編『原典 イギリス経済史』御茶の水書房、1975年。

(36) ポランニー、吉沢英成他訳『大転換』東洋経済新報社、1975年

(37) 松井透『世界市場の形成』岩波書店,1991年。

(38) 山之内靖「国民経済の構造変革」大塚久雄編『西洋経済史』筑摩書房、1977年。