民族と「伝統」の変質:牧畜民ガブラが経験した1997年国会議員選挙

曽 我   亨 

1.はじめに

 民族紛争が頻繁に起きているアフリカを見ると、我々は、アフリカには「部族(tribe)」というものが在って、太古の昔から紛争を続けてきたのだと、つい思いこんでしまいがちである。「野蛮」で「未開」な人々が住むアフリカには、いまだに排他的な「部族」が在って、同質的な考えを持つ人々が、伝統的な生活にどっぷりと浸かり、変化に乏しい生活を送っているというわけだ。

 けれども、こうした「部族」という概念は、むしろ最近になって作り出された、きわめて近代的なものであることが明らかになってきた。歴史学者のOgot(1996)は、植民地主義者たちが訪れる以前の、19世紀の終わりごろのケニアには、水ももらさぬ程の厳格で、排他的な民族というカテゴリーはなかった、と述べている。そこにあったのは、メンバーを得たり失ったり、拡大したり収縮したりする共同体だったのであり、その共同体の一部が移動したり、他の民族グループによって吸収されたりするなど、複雑な状況が生まれていたのである。また、この過程で、新しい共同体や言語がつくりだされていった。つまり、そのころの共同体は、現在みられる民族とは異なり、流動的で、変化に富み、異質な人々を緩やかに組織した存在だったのである。

 ところが、植民地主義者が、言語を同じくする人々を「部族」として固定してしまい、文化も言語もことなる隣接している民族からの汚染をさけるために、人々の移動を禁止すると、アフリカ人は、もはや流動的で緩やかに組織された共同体を新たに作りだすことができなくなってしまった。さらに「部族地図」が作られ、各部族の境界に一致した行政区が作られ、それに基づいて議会が作られると、人々は「部族」に対する強い愛情を持つようになり、かつ排他的な民族感情が生み出されていったのである。すなわち、地方議会はすぐに「部族」議会となり、そこでは特定の民族集団の富や利益に関連した議題が話し合われ、特定の民族集団に関連する問題の解決がおこなわれるようになったのである。

 私たちは、民族を分別する特徴として、言語や伝統、社会組織など、その民族に特有の文化に目を向けがちであるが、バルト(1996)が主張するように、民族という単位の存在は文化的現象というよりも、むしろ組織化の現象と見なすべきなのである。けれども、文化的なエレメントは、決して民族の組織化の過程に無関係なものではあり得ない。ホブスボウム(1992)が指摘するように、社会組織や文化は、民族の組織化の過程で「伝統」として創りだされ、徹底的に利用されているのである。

 バルトは民族の境界線は、経済的・政治的な資源をめぐる他の民族との相互作用によって維持されているのだと論じている。私は、政治的な資源をめぐり利害を共にする集団が、その政治意識を高めていく過程において、いかなる「伝統」が、いかなる形で利用されたかを報告したいと思う。報告の対象はケニア北部に住む牧畜民ガブラである。ケニアでは1997年12月に、独立以来8回目の国会議員選挙がおこなわれたが、この選挙によって、ガブラ社会は大きな影響をうけた。ガブラ社会は、選挙すなわち国会議席という政治的資源をめぐる争いによって、一時期、二つの集団へと分裂してしまったのである。本稿では、まずガブラが選挙という国家的でマクロな過程にどのように取り込まれ、どのような集団が政治的な利害を共にすることになったかを述べる。次に、彼らがガブラの「伝統」をキャンペーンにいかに利用していったか、またこの過程において、選挙に取り込まれた彼らの経験の次元に起きた変化を報告したい。

2.ガブラの社会組織

 まず最初に、ガブラの概略を述べておこう。ガブラはケニア共和国のマルサビッツ県北部からエチオピアのシダモ州南部にかけて住んでいる。ケニア側に住むガブラの人口は約3万人である。ガブラ社会はクラン組織と、世代組織によって組織されている。この章ではこれらの組織とガブラの役職者について説明する。

(1) クラン組織

 ガブラ社会は父系出自集団によって組織されており、その基本的な単位はクランである。ガブラには約40のクランが存在するが、これらのクランはアルガナ、ガル、ガルボ、オドラ、シャルバナの5つのフラトリーに統括されている。クランは1〜7のリニージによって構成されている。つまりガブラ社会は、分節レベルが高いほうから低いほうに、フラトリー、クラン、リニージというように区分されているのである。

 このうち、本稿の議論に関連のあるフラトリーについて、ガブラがこれらの分節をどのように認識しているかを述べておこう。フラトリーは地域集団として重要である。各フラトリーはそれぞれ決まった領域に占居しており、その地域の井戸を管理している。また家畜の放牧もその領域の内部でおこなうことが多い。さらに婚姻の大部分もフラトリーの内部でおこなわれている(Torry, 1976)。ただしフラトリーは排他的に地域を占有しているわけではない。他のフラトリーの者が移住してくるのを排斥することはないし、異なるフラトリーに属する者が同じ集落に居住したり、井戸を利用したりすることはふつうにみられるのである。

 フラトリーは紛争を調停したり宗教的行事をおこなう最大の単位としても重要である。ガブラはフラトリーごとに、オラ・ヤー(olla ya’a)と呼ばれる宗教・政治的な活動の中枢となる特殊な集落を作る。紛争が生じると、まずその当事者たちが住む集落の成員や、その地域の長老たちが調停に乗り出す。けれども彼らが調停に失敗した場合には、問題はヤー集落にもちこまれ、そこで調停がなされるのである。また後述するように、ガブラは7年に一度、ジル(jilla)と呼ばれる巡礼の旅にでるが、この巡礼団もフラトリーごとに組織され、巡礼先でさまざまな宗教行事をとりおこなうのである。

(2) 世代組織(Generation System)

 世代組織はガブラやボラナなどオロモ系社会に特有の社会組織である。世代組織は、人々を世代に応じていくつかの組(世代組)に分け、各世代組をそれぞれ特定の世代階梯に配置する。ガブラの世代階梯は、上から順に@引退長老階梯、Aダベラ階梯、Bガドーム階梯、Cそれ以下の者たちが帰属する子供階梯となっている。そして世代組は、7年ごとにひとつ上の世代階梯へとあがっていくのである。

 各階梯の役割について説明しよう。ダベラ階梯の者たちの役目は、平和と安寧を祈ることである。ダベラ階梯の者たちは「木陰(ebu)」を持っていると言われ、問題解決のための集会を開く資格がある。次にガドーム階梯の者たちは、政治的に中心的な役割を果たす。ガドーム階梯の者たちは「木陰(gaas)を持つ」と表現されるが、彼らが中心となって木陰で集会を開き、問題や紛争に対処することになる。引退長老階梯と子供階梯には特に役割はない。つまりガブラ社会では、ガドーム階梯とダベラ階梯に、政治的「権力」と宗教的「権力」が集中しているのである。

 (3) ガブラの役職者

 世代組は7年ごとに、一つ上の世代階梯へと移行する。この移行の始まりを告げるのが巡礼の旅と、新しいオラ・ヤー集落の建設である。移行の時が近づくと、ガドーム階梯への移行を目前に控えた子供階梯の者たちは、ハユとジャッラブの二つの役職の候補者を選出する。これらの役職につく者が選出されるのは、この時だけであることを覚えておいて欲しい。まず、この二つの役職者について説明しよう。

 ハユはもっとも重要な役職であり、ガドーム階梯、ダベラ階梯、引退長老階梯から、それぞれ二人のハユが選出される。ガドーム階梯のハユは、ガブラ社会の中心的な存在であり、人々を招集し集会を開催する権限があるほか、問題を最終的に解決する権限がある。他の階梯のハユは、彼を補佐する。ただし、決してわれわれが想像するような権力者ではないことに注意しなければならない。ハユは誰も支配しないし、誰かを自分の意に沿わせようともしない。ハユといえども、日常生活においては、ガブラの慣習(a’da)に従わなければならず、強権的な振る舞いをすることはできないのである。ハユは調停者としてのみ、大きな権威を有しているのである。

 ジャッラブはガドーム階梯にのみ固有の役職である。各フラトリー全体では約40人ほどの者がジャッラブに任命される。ジャッラブはオラ・ヤー集落でハユを補佐する他、広くガブラ・ランドに散在し、各地で起きる紛争や問題の解決にあたる。つまり紛争や問題がおきると、まずジャッラブがその地域に住む長老たちを召集して集会を開き、問題の解決にあたるのである。そしてジャッラブによって解決しきれなかった問題が、オラ・ヤー集落に持ち込まれるのである。

 これらの役職のほか、各フラトリーを象徴する3つの器具(ドラム、角笛、火起こし棒)を所有する人々(それぞれドラムの父、角笛の父、火起こし棒の父と呼ばれる)は、オラ・ヤー集落で開催される儀礼において固有の役割を果たしており、重要な役職であると認識されている。

3.選挙がガブラにやってきた

 (1) ケニアの選挙制度

 ケニアで投票の意志がある者は、あらかじめ選挙管理委員会に登録をしなければならない。登録できるのは18才以上の国民であり、ケニア国民であることを証明する書類(通常は身分証明書)が必要である。

 ケニアでは総選挙が5年ごとにおこなわれ、大統領、国会議員、地方議会議員が一括して選出される。ケニアは小選挙区制をとっており、1969年には、158の選挙区が設けられた。その後、選挙区は次第に細分化され、1988年からは188、1997年からは210の選挙区がもうけられた。

表1.1997年、総選挙の実施日程

11月

27日

KANUの指名選挙(Mlolongo)

12月

3〜4日

各政党からの大統領候補者の届け出の締切り

12月

7日

各政党からの地方議員と国会議員の候補者の届け出の締切り

12月

8〜9日

選挙管理人に立候補の届け出

12月

10日

選挙運動(キャンペーン)の開始

12月

28日

選挙運動はこの日で終了

12月

29日

投票日(Kura Debe)

1月

3日

ラジオ、新聞などを通じて投票結果の発表

               (The Daily Nationによる)

 1997年におこなわれた選挙日程は、表1に示したとおりである。選挙は@各政党の候補者を決定する指名選挙(Nomination)と、A政党間で争われる総選挙(General Election)の2つの段階を踏んでおこなわれた。

 @指名選挙:ひとつの選挙区あたり、各党から出せる候補者はひとりだけである。そこで、まず各党の候補者をひとりに絞り込むことを目的とした投票がおこなわれる。これが指名投票であり、各政党によって実施される。指名投票はキューシステム(queue system [英]、mlolongo [スワヒリ])によっておこなわれるのが一般的である。キューシステムとは、例えばAとBのふたりの候補者がいる場合、Aの支持者はAの側に、Bの支持者はBの側に並び、列(キュー)を作ってその人数を数えるというものである。当然のことであるが、キューシステムでは誰がどの候補者に投票したかが誰の目にも一目瞭然となってしまうことが最大の問題点である。

 A総選挙:各党が候補者を指名すると、各党から出馬した候補者たちは、いよいよ総選挙に臨むことになる。総選挙はケニア選挙管理委員会によって管理される。総投票は無記名投票(secret ballot [英]、kura debe [スワヒリ])によっておこなわれる。無記名投票の場合、問題となるのは文字の読み書きができない有権者への対応である。そうした有権者は選挙管理人に、どの候補者に投票するかを告げ、選挙管理人が有権者に代わって投票用紙に印をつけるという手段がとられている。この際、各候補者が指名した代理人たちが立ち会い、選挙管理人が不正を働かないよう監視する。

 現実問題として、無記名投票であっても文字を読めない人が投票する場合、各候補者は代理人を通して、その人がどの候補者に投票したかを知ることができる。とくに識字率が低い地域ではこうした弊害が大きい。ガブラが居住するマルサビット県は、全国平均に比べて著しく識字率が低く(表2を参照)、誰がどの候補者に投票したかは、ほぼ完全に各候補者やその支持者たちの知るところとなってしまった。

表2. 20才以上の識字率(%)

マルサビット県

ケニア全体

男性

24.8

76.0

女性

7.7

53.1

合計

16.1

64.3

       (1989 Kenya Population Censusより作成)

 (2) ガブラと選挙

 原野に住むガブラの人々が投票に行くようになったのは、ごく最近のことである。おそらく1988年におこなわれた第6回の選挙からであるといって差し支えない。それ以前、選挙は町に住むガブラだけが参加するものであった。ところが1988年の選挙区の改正を機に、町に住むガブラがキャンペーンに原野を訪れるようになり、原野に住むガブラたちも徐々に選挙に行くようになったのである。

 それまでの北マルサビット選挙区(Marsabit North)が、サク選挙区(Saku)とノースホール選挙区(North Horr)の二つの選挙区に分かれることによって(図1)、状況にどのような変化が生じたのか見てみよう。

 1988年の改正以前におこなわれた5回の選挙結果をみると、1974年を除くすべての選挙でガブラの候補者が当選しているが、このようにガブラは、それまでさしたる苦労をすることもなく候補者を議会に送ることができた(Institute for Education in Democracy 1997による)。北マルサビット選挙区にはガブラのほか、ボラナ人、レンディーレ人、トゥルカナ人、ブルジ人、サンブル人、ソマリ人、そしてバンツー系の人々が含まれているが、最大の人口を擁するガブラは、支持する候補者の一元化に努め、議席を確保してきたのである。

 ところが1988年の改正で、北マルサビット選挙区がサク選挙区とノースホール選挙区に分かれた結果、次のような状況が生まれた。

 まずサク選挙区はマルサビット市を中心とする選挙区であが、この選挙区ではボラナ人は有権者の過半数を占めるようになり、その結果、この選挙区でガブラが勝つことは難しくなった。一方、ノースホール選挙区では、ガブラが圧倒的大多数を占めているため、ガブラ候補者が議席を確保することがより確実なこととなった。ここにおいてガブラは他の民族に対抗して団結する必要がなくなったのであり、候補者の一元化を進める必要も無くなった。そしてノースホール選挙区の議席をめぐって複数のガブラの候補者同士が戦うことになったのである。

 1988年以降、キャンペーンが活発におこなわれるようになり、投票に対するガブラの関心も高まっていった。1983年までは、町に住む人々だけが投票に赴いていたのに対し、1988年以降は、町に住むガブラが原野に点在する集落を訪れてキャンペーンをするようになり、原野に住むガブラも少しづつ投票に行くようになっていった。かくして選挙は、町に住むガブラだけのものではなく、ガブラ全体が参加するものになっていったのである。

4.分裂したガブラ社会

 (1) 「クラン主義」の台頭

 1997年の国会議員選挙に、ノースホール選挙区から出馬したのは、政権党であるケニア・アフリカ人全国同盟(Kenya Afircan National Union:以下、KANUと略記)で現職のボナイヤ博士、同じくKANUで新人のエレマ氏、野党であるケニア開発党(National Development Party of Kenya:以下、NDPと略記)で新人のワリオ氏の3名である。KANUから出馬した二人の候補者が、まず指名選挙で争い、続いて、KANUの指名を獲得したボナイヤとNDPのワリオが総選挙で議席を争った。そして総選挙の結果、KANUのボナイヤが再選を果たしたのである。

 さて、今回の選挙は、事実上、ボナイヤとエレマの一騎打ちであったと云われている。各候補者が獲得した得票数をみると、指名選挙ではボナイヤが5854票対3928票でエレマを下し、総選挙では5404票対2441票でワリオを下している。この数字だけを見ると、ワリオもエレマにおとらず善戦しているように見える。けれども、これは指名選挙で敗れたエレマの支持者たちが、総選挙ではボナイヤに対抗してワリオに投票した結果にすぎないと云われている。ワリオを当初から支持する者は非常に少なかったというのが、人々の一致した見方であり、事実、次のような会議が開かれた。

【事例1】

 指名選挙と総選挙のあいだに、ノースホール町でアルガナの人々を中心とする集会が開かれた。集会の主催者はジャッラブのフカ氏、ワリオ氏、ダベラ階梯のドゥブ氏らであった。この集会で彼らは、指名選挙でエレマが敗れたから、次の総選挙ではNDPから出馬したワリオに投票しようと呼びかけた。

 指名選挙で敗れたエレマの支持者たちは、総選挙では、ボナイヤを打倒するために、ワリオに投票するよう人々に呼びかけた。さらに、このキャンペーンの中で、彼らは「クラン主義(Clanism)」という言葉を用いて、ボナイヤと彼が帰属するガル・フラトリーの人々の投票行動を非難するようになった。この「クラン主義」という考え方は、1997年の選挙を特徴づける重要な考え方である。彼らの非難に耳を傾け、「クラン主義」がいかなる意味を持つ言葉であるかを見ていこう。

 彼らが言う「クラン主義」とは、人類学のジャーゴンを用いれば「フラトリー主義」とでも言うべきもののことである。彼らは、過去2回の選挙と、今回の選挙においてガル・フラトリーの人々がどのような投票行動をとったかを問題にした。過去2回(1988年と1992年)の総選挙では、いずれもアルガナ・フラトリーのアブドカーデル氏とガル・フラトリーのボナイヤが争い、ボナイヤが当選した。そして1997年の指名選挙でも、アルガナ・フラトリーの候補者であるエレマがボナイヤに敗れることとなったのである。

 先にも述べたように、ケニアの投票システムでは誰が誰に投票したかが他人にも分かってしまうという弊害がある。エレマの支持者たちは、過去2回と今回の選挙において、ガル・フラトリーの人間が、皆、ボナイヤにばかり投票し、アルガナの候補者には投票しようとしないことに気付いた。一方、アルガナ・フラトリーの人間のなかには、アルガナ・フラトリーの候補者(アブドカーデルやエレマ)に投票した者もいれば、ボナイヤに投票した者もいるという。これはつまり、アルガナ・フラトリーの人間がガブラ全体の権益を考えて投票しているのに対して、ガル・フラトリーの人間はガル・フラトリーの権益のみを考えて投票していることの現れであり、「クラン主義」であると、エレマの支持者たちは主張したのである。

 このようにエレマの支持者たちが考える「クラン主義」とは、自分が帰属する集団(ここではフラトリーがそれにあたる)の成員の政治的・経済的資源を確保するため、全員一致して同じ政治的態度をとること、を意味していると言えるだろう。ガル・フラトリーの人々は、自分たちが「クラン主義」に囚われてはいないと弁明につとめた。けれども、アルガナ・フラトリーの人々は、ガル・フラトリーの人々の行動に疑念を持つようになっていった。

 さらにエレマの支持者たちは、ガル・フラトリーの人間がガル・フラトリーの利権を考えて投票するならば、われわれアルガナ・フラトリーの人間も結束しようとアルガナの人々に呼びかけた。彼らはガル・フラトリーの人々を「クラン主義」であると非難する一方で、今度は意図的に「クラン主義」をアルガナ・フラトリーに導入していったのである。そしてアルガナ・フラトリーでありながら指名選挙でボナイヤに投票した11人に対し、アルガナ・フラトリーからの除名を宣告した。ここに至って、今度はアルガナ・フラトリー内部の、「クラン主義」が大きな問題となっていったのである。

 (2) 「クラン主義」の新しさ

 けれども、エレマの支持者たちが主張するような「フラトリーのレベルで結束し、全面的に対決する」という考え方は、原野に住むガブラにとって非常に新しい考え方であった。

 まず第一に、フラトリーという大きい分節のレベルで、利害を争うというという図式がガブラにとって新しい考え方であった。これまで、ガブラが利害を争うときに結束を固めるのはむしろクランのレベルにおいてであったし、フラトリーは調停や宗教的儀礼を開催する単位としてみなされており、利害を争う単位としてはみなされてこなかったからである。

 次に、ある集団(ここではフラトリー)に帰属する成員が、まったく同じ政治的な態度をとらねばならないとする考え方もガブラにとって新しい考え方であった。もちろん、これまでガブラが「ある集団に所属している者は同じ政治的な態度をとるべきだ」という考えを全く持たなかったわけではない。たとえば、先に述べたように、クランのレベルで利害を争う場合に、自分が帰属するクランの成員が一致して争うと言明することはよく見られることである。けれども、そうした場合においても、そのクランの成員全員が一致した態度をとるわけではなかった。

【事例2】

 グヨ氏はガルガロ氏の娘を自分の息子の妻にと望んだ。ところが、その一方でグヨはガルガロの娘のことを周囲の人々に悪しざまに語っていた。これを聞きつけたガルガロは怒り、自分のクランに帰属する娘は、今後、誰一人、グヨのクランの成員には嫁がせないと言明した。当時、彼ら以外にも、両クランの間で複数の婚約が結ばれていたため、グヨのクランの成員たちはガルガロに謝罪するようグヨに働きかけた。ところがこの交渉がおこなわれている最中に、ガルガロと同じクランに帰属するアダノ氏は、自分の娘をグヨと同じクランのカテロ氏に嫁がせてしまった。

 この事例に示したように、クランのレベルにおいてもガブラは一枚岩となって争うわけではない。怒っているガルガロに同調した者もいるが、アダノのようにガルガロの思惑に反する行動をとる者もいる。ここで重要なことは、アダノがこうした行動をとったとき、それを誰もとがめたり、問題にしたりはしなかったことである。

 私は、ガブラが利害を争うときにはクランの結束を強めると述べたが、ここでいう結束とは、クランの全員が一致して他のクランに対抗するということではないし、クランが同じであれば同じ政治的な立場をとるということでもない。クランの思惑に反した行動をとったからといって、とがめられたり罰せられることもないのである。ガブラにとってクランとは、全員一致する集団なのではない。ガブラにとってクランとは、問題を抱え紛争に直面している人が、自分の側に立ってくれる人間を探し出すときの指標となるものなのである。だからこのように言い換えよう。ガブラは同じクランに帰属しているからといって、無条件で政治的な立場を決めたりはしない。問題を抱える人に依頼されて、あるいはその人と自分との個別的な関わりに応じて政治的な立場を決めているのである。

 ところが、町からやってきたエレマの支持者たちが呼びかけるフラトリーの結束とは、アルガナ・フラトリーに帰属する者は、アルガナ・フラトリーというカテゴリーに帰属するがゆえに、全員一致でエレマを(そして総選挙ではワリオを)支持しなければならないというものであった。そしてこれに応じない者に対しては、フラトリーから排除しようとしたのである。この意味で、エレマの支持者たちがおこなったキャンペーンは、アルガナ・フラトリーという枠組みを強調するだけでなく、フラトリーを強固で均質な政治意識を持つ者の集団へと転換していこうとしたのである。

 (3) 伝統の利用法

 それでは「フラトリーが一致して結束する」という新しい図式を、エレマの支持者らはどのようにして原野に住むガブラに植えつけていったのだろうか。その方法についてみていこう。彼らは、アルガナ・フラトリーの結束を訴える過程で、ガブラの伝統を巧みに利用したり、新たに「伝統」を作り出したり、「捏造」したりした。

  @ 伝統の利用:戦争のメタファーによる訴えかけ

 まずエレマの支持者たちは、選挙を戦争のメタファーで語ることによって、フラトリーの結束を強め、さらにはそれに従わない者たちを排除しようとした。ガブラはラクダやウシなどの家畜を奪うことが目的で、自らの周囲を取り巻く牧畜民を襲うことがある。こうした略奪はロル(lol)と呼ばれる。あるエレマを支持するアルガナの男性は、今回の選挙でエレマに投票しなかったアルガナの人々のことを次のように語った。

「指名投票のとき、少なからぬアルガナ・フラトリーの人がボナイヤに投票するのを見て、私たちは驚いた。もちろん、ボナイヤはガル・フラトリーの「息子」であるから、ガルの人間がボナイヤに投票するのはよく分かる。しかしアルガナの人間がアルガナの「息子」であるエレマに投票しないのはどうしたわけかと考えた。たとえば戦闘で仲間が傷ついたとき、その仲間を残して逃げ出すことなどできない。しかし彼らはアルガナの息子を見捨てていったのだ」

 戦闘で傷ついた仲間を見捨てて捨てて逃げた者はハルバク(halbaku)と呼ばれる。ハルバクは嫌悪され、さまざまな社会的制裁を受ける。たとえばハルバクの娘たちは誰からも求婚されない。またハルバクとなった男性は、不浄な存在であるとみなされ、供儀儀礼(soryo)や献乳儀礼(almado)を開催することもできないし、他人が開催するこれらの儀礼に参加することも許されない。つまりハルバクとなった男性は、ガブラの重要な儀礼から排除されるのである。

 エレマの支持者たちは、このような戦闘の場面を選挙のメタファーとして用いることによって、アルガナの人々の感情に訴えた。ガブラにとって、実際に戦闘が起きている現場にいる者は、皆、一致団結して戦うのが当然のことである。このメタファーによって、エレマの支持者たちは、アルガナの人々が結束しなければならないことと、それに従わなかった者、すなわちアルガナ・フラトリーの人間でありながら、ボナイヤに投票した者をアルガナ・フラトリーから排除することを納得させていったのである。

  A 伝統的役職者の利用

   命令する伝統的役職者

 こうした言説を強化するため、エレマの支持者たちは、まず、ガブラの伝統的役職者を利用した。彼らは、ハユやジャッラブを権力者に仕立て上げ、人々に命令を下す存在へと変えていったのである。先にも述べたように、本来、ハユやジャッラブは、人に命令を下すような権力を有していない。彼らの役目は紛争を両者が満足するような調停をおこなうことなのである。けれども、エレマの支持者たちは「これはオラ・ヤー集落の指示である」「ハユが言ったことである」と繰り返して、自らの主張を正当化するとともに、人々の反論を封じようとした。

   偽ジャッラブの捏造

 また、エレマの支持者たちは、偽ジャッラブを捏造した。1995年に私はジャッラブの役職についている者たちの調査をおこなったが、そのときにはジャッラブではなかった男性が、1997年にはジャッラブとみなされるようになっていたのである。ジャッラブが選出されるのは、巡礼の旅に出かけるときだけであるから、この新たなジャッラブはもちろん偽者である。

 偽ジャッラブは、エレマを支持するキャンペーンの中で中心的な役割を果たしていた。また彼はボナイヤを支持するアルガナ・フラトリーの人間の排除にも積極的に関わった。

【事例3】

 1997年9月、イブラエ老人が死亡すると、遺族は死体を埋葬し、12月に葬儀の第一段階である「冷却の儀礼(kabanesa)」をおこなおうとした。この「冷却の儀礼」は総選挙の直前に予定されていた。ところが「ジャッラブ」のクンナテ老人は、集会を開き、イブラエの「冷却の儀礼」に参加しないよう、人々に呼びかけた。これは、イブラエの息子たちが、ボナイヤの熱心な支持者であることが原因であった。さらに、クンナテは人々に、これはオラ・ヤー集落からの指示であると述べた。そしてエレマを支持する人々は、イブラエの「冷却の儀礼」に参加しなかった。

 事例3に登場するクンナテ老人が、エレマの支持者によって新たに捏造された偽ジャッラブである。この偽ジャッラブは、雄弁に人々に語りかけ、オラ・ヤー集落の権威を持ち出しながら、彼の主張に従わない者たち(すなわちボナイヤの支持者たち)を排除したことに特徴がある。「冷却の儀礼」にエレマの支持者たちが参加しなかったことは大きな社会問題となった。けれども、こうした態度は、本物のジャッラブの振る舞いとは大きく異なるものであった。

 本来、ジャッラブは調停に専念し、ただ安寧(nagaya)を生みだすよう努める存在である。彼らが目指すのは、争いの当事者たちの勝敗を決することではない。当事者たちの争いを一刻も早くやめさせることが彼らの最大の目的であり、つぎに双方に納得のいく調停案を示すことである。具体的な実例を挙げよう。

【事例4】

 ある時、ヤギを盗んだ男が捕まった。ジャッラブのワリオ老人はこの男の処遇について会議を開催した。会議の結果、この男にはヤギ40頭の賠償が課せられることになった。けれどもその後で、ワリオ老人は、ヤギ10頭をその場に集まった老人に免じて許そうと提案した。次に、ヤギ10頭を、人々を灼熱から守ってくれる木陰に免じて許そうと提案した。さらにヤギの数が減るとその群れにいる仲間のヤギが困るであろうから、ヤギ10頭を、ヤギの群れに免じて許そうと提案した。結局、その後も賠償は割り引かれ、この男はヤギ5頭だけ賠償すればよいことになった。

 この事例のように、過ちを犯した者は厳しく糺され、莫大な賠償が課されるが、会議の目的が、罪を犯した者を破産させることではないことは明らかである。莫大な賠償を課すことで罪の大きさを表現し、被害者を納得させつつも、加害者の側の生活にも配慮するのがジャッラブの腕の見せ所なのである。

 ところが、偽ジャッラブのクンナテ老人は、積極的に対立をあおり、アルガナ・フラトリーでありながらボナイヤを支持した者たちを排除しようとした。こうした事態を重視して、本物のジャッラブの一人は、双方の人々に「そのような指示はオラ・ヤー集落からはでていない」と言明するとともに、人々に争いをやめるよう呼びかけた。けれども、総選挙の投票が近づくにつれて、人々はますます争うようになっていったのである。

 人々が「本物」のジャッラブの言葉に耳を傾けず、むしろ偽ジャッラブの言うことに従ったのは、選挙が、候補者の勝敗を決するシステムだからであろう。クラストル(1987:150)は、未開社会の「社会生活とは、どのようなものであれ勝利なるものは一切排除した「戦い」なのであり、逆に「勝利」について語りうる者がいるとすれば、それはあらゆる戦いの外、つまり社会生活の外にいる」のだと述べている。勝敗を決する選挙というシステムは、それまでのガブラ社会にはなかった、新しい「戦い」なのであり、人々は、この新しい「戦い」を、ガブラの社会生活の内にある勝敗を排除した「戦い」と同じように扱おうとした「本物」のジャッラブの言葉に従おうとしなかったのである。

   新たな役職者の誕生

 次にエレマの支持者たちがおこなったのは、全く新しい種類の役職者を作りだすことであった。それが「ドラムの匠」である。各フラトリーのオラ・ヤー集落には、それぞれドラムと角笛、火起こし棒がおかれている。ところでアルガナのドラムが金属製であるのに対して、アルガナを除く他の4つのフラトリーが保有するドラムは木製であり、彼らは、新たなオラ・ヤー集落を建設するときには古いドラムを破棄し、新しいドラムをアルガナのボルガ・クランの者に作ってもらうのがガブラの伝統である。この伝統は、かつてガル・フラトリーが自分たちでドラムを作ろうとしたが、何度作ってもすぐに壊れてしまった、という伝承によっても支えられている。

 エレマの支持者たちは、この伝統に目を付け、このドラムの制作者を「ドラムの匠」という役職者に仕立て上げた。そしてこの「ドラムの匠」はハユよりも、より強大な権力を持つ者であるということにされた。なぜならば、「ドラムの匠」が新しいドラムを作らない限り、アルガナを除く他のフラトリーは新しいオラ・ヤー集落を建設することができないし、従って新しいハユの候補者が、その役職に就任することもできないからである。彼らは、「ドラムの匠」という役職を新たに作りだすと共に、この役職についた男性をエレマの陣営に引き込むことで、自らの主張をさらに権威付けようとしたのである。

 さらにエレマの支持者たちは、この伝統の再解釈を試み、一番立派なドラムを持つアルガナは、5つのフラトリーの「長男(angaf)」であるというキャンペーンを繰り広げた。ガブラは長男に大きな権威を認める社会である。父親が死亡すると、長男は家督を相続し、弟たちを監督をする。エレマの支持者たちは、アルガナが5つのフラトリーの長男であると言うことで、アルガナの主張に、弟である他のフラトリーの人々は従わなければならないのだ、と主張したのである。この主張は、他のフラトリーの人々には受け入れられなかったが、アルガナの中にはこの主張を信じる者や、「ドラムの匠」が「伝統的」な役職であって、強い権力を持っていると考える者もでてきた。

 エレマの支持者たちがおこなったキャンペーンに刺激されて、エレマを支持するアルガナの人々は、ボナイヤを支持するアルガナの人々の排斥に積極的に関わるようになり、各地で両者の紛争が激化していった。彼らは暴力をふるいはしなかったが、人々は相手が誰に投票したかによって、葬儀や婚姻の参加を取りやめたり、家畜の提供を拒んだり、婚姻や家畜を与える約束を破棄するようになっていった。そして、こうした紛争を通してガブラは、エレマを支持するアルガナ・フラトリーと、ボナイヤを支持する者(アルガナだけでなく、他のフラトリーの成員も含まれる)とに分裂してしまったのである。

5.「国家に抗する社会」から「権威への服従を求める社会」へ

 これまで議席という政治的な資源をめぐって、アルガナの人々がいかなる伝統に目をつけ、加工し、利用してきたかを述べてきた。ここに認められるのは、伝統世界を構成するエレメントが、本来のコンテクストからはずされて、政治的な目的によって徹底的に利用されていることである。

 たとえばキャンペーン期間中から、オラ・ヤー集落の権威は頻繁に利用されてきた。エレマの支持者たちは、アルガナ・フラトリーでありながらボナイヤに投票した人々を、「エレマに投票するようにというオラ・ヤー集落の命令に彼らがそむいた」ことを理由にフラトリーから排除しようとしたり、そうした排除自体も「彼らを排除するのは、オラ・ヤー集落の指示である」として正当化しようとしてきた。

 けれども、こうしたオラ・ヤー集落の「利用法」は、ガブラの伝統世界におけるオラ・ヤー集落の働きとは異質のものなのである。たとえば1960年代の後半にガブラ社会を調査したTorry(1973:393−397)は、オラ・ヤー集落の機能として次の6つの点、(1) 慣習(a’da)にたいして違反した者を裁くこと、(2) 世代階梯に関する計画(巡礼の旅の計画)と儀礼を計画すること、(3) 他民族からの移籍してきた者をガブラとして承認すること、あるいはガブラのなかで、自分の出自集団を抜けて、他の出自集団に加入したい者がいた場合、その移籍の承認すること、(4) 社会的な責任を果たさない者に対して罰金を課すこと、(5) 儀礼のために家畜を徴用すること、(6) ガブラ・ランドに散在する政治的リーダーたち(ジャッラブをはじめとするガドーム階梯の者)に対して安寧を象徴するブレスレットを贈ること、を挙げている。

 これを見ればわかるように、オラ・ヤー集落は政治権力を握っているというよりは、宗教的な中心であり、また裁判機関として機能していることがわかる。さらにTorry(1973:39)は「ガブラはオラ・ヤー集落が紛争を作りだす機能を有するというよりは、平和を作りだすものであると強く主張している」と述べている。Torryの記述をみると、ガブラ社会は一人の人間に強大な権力を与えるのではなく、むしろ調停に重きを置いた「国家に抗する」社会としての特徴をよく備えているのである。

 エレマの支持者たちは、排除を指示しているのはオラ・ヤー集落であると主張しているが、その真偽はさておき、オラ・ヤー集落の名前をだせば、人々を支配することができると考えたことが重要である。彼らは、オラ・ヤー集落を、何かを人に強制することができる権力装置とみなしたのである。そして、捏造された偽ジャッラブや「ドラムの匠」も権力装置として利用されていった。「アルガナが他のフラトリーの長男である」という言説もそうである。たしかにガブラ社会では長男が大きな権威を持ち、弟たちは長男の言うことに素直に従うことが多いのであるが、それは決して長男が弟たちを支配していたり、権力を有しているからではない。長男の権威は、ラクダの信託制度などによって支えられているのである(Soga 1997)。

 エレマの支持者たちは、指名選挙で勝つために、そして総選挙ではボナイヤに報復するために、アルガナ・フラトリーの結束を高めようとしたが、その過程で彼らは、「権威のある人々の発言には従わなければならないのだ」という新しい考え方を持ち込んだ。彼らは、一人の人間に権力が集中することを嫌う原野のガブラに、ハユやジャッラブ、ドラムの匠といった上位の人間の指示には従うものだという考えを植えつけていったのである。この意味で1997年の国会議員選挙は、ガブラ社会に「国家に抗する社会」から「権威に服従する社会」へと転換を迫るものであったといえるだろう。そしてそれは多様な考えを持つ人々に、均質な政治意識を持つように強いる社会なのであった。

 ガブラ社会は、その後、傑出したハユの一人であるマンモ・ダドゥ老人が主催した「ガブラ全体会議」によって再びひとつの民族へと統合されていくことになる。けれども、そこに統合されたのは、もはや「国家に抗する社会」ではなかった。「権威に服従する社会」へと転換をとげたガブラ社会は、近代国家のなかで、均質な政治意識をもつ民族として生まれ変わったのである。

1. 参考文献

バルト、F. 1996. 「エスニック集団の境界」(内藤暁子、行木敬訳)『「エスニック」とは何か:エスにシティ基本論文選』(青柳まちこ編・監訳)23-71頁、新泉社、東京。

ホブスボウム、E. 1992. 「序論─伝統は創り出される」『創られた伝統』(前川啓治、梶原景昭他訳)9-28頁、紀伊国屋書店、東京。

Institute for Education in Democracy, 1997. National Elections Data Book: Kenya 1963-1997., Institute for Education in Democracy, Nairobi.

クラストル、P. 1987、『国家に抗する社会』(渡辺公三訳)、水声社、東京。

Ogot, Bethwell A. 1996. “Ethnicity, Nationalism, and Democracy - A Kind of Historiography.” Ethnicity, Nationalism, and Democracy in Africa, (Ogot, Bethwell A. ed.), pp.16-27., Institute of Research and Postgraduate Studies, Maseno University College,

Republic of Kenya, 1994. Kenya Population Census 1989: Vol.1., Central Bureau of Statistics, Office of the Vice-President and Ministry of Planning and National, Nairobi.

Soga, Toru. 1997. “The Camel Exchange System among the Gabra: Patterns and Consequences of Inheritance.” Ethiopia in Broader Perspective Vol. 2 (Papers of the XIIIth International Conference of Ethiopian Studies)(K. Fukui, E. Kurimoto, M. Shigeta eds.), pp.597-615.

Torry, William I. 1973. “Subsistence Economy among the Gabra, Nomads of the Kenya/Ethiopia Frontier.” Ph.D. dissertation, Columbia University Faculty of Political Science.

Torry, William I. 1976. “Residence Rules Among the Gabra Nomads: Some Ecological Considerations.” Ethnology 15. pp.269-285.

2. 定期刊行物

The Daily Nation(1997. 11. 1〜1998. 1. 10)