弘前大学人文社会科学部
文化創生課程 多文化共生コース


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ゼミ・研究室紹介

中国史学研究室/荷見 守義(教授)

「中国史」を「研究」するということ

 高校では「世界史」や「日本史」の科目で歴史を学びます。歴史を学ぶことは、世界や日本がいかなる文明であるかを認識するための基礎であり、社会人としての素養でもあります。「何年にどのような事件が起こったか」を知る(暗記する?)ことは、それはそれで意味のないことではありませんが、そして試験対策としては寧ろ重要なことかもしれませんが、「その事件はなぜ起こったのか」と問い、事件の因果関係を探っていくところから、「歴史学」という学問は始まります。「中国史」はそのような歴史学の一分野として、中国及び中国が歴史的に影響を与えた地域の歴史を研究します。現在、歴史学研究の世界では、地球上で展開して来た人類の歩みの中に地域の歴史展開を位置付けようとする試みが盛んになって来ました。世界的な通交の中で中国は世界からいかなる影響を受け、いかなる影響を世界に与えて来たのか、果てしない学問的な問いが待っています。

~授業について~

歴史学入門/中国史/歴史文化演習

 歴史学入門と中国史は講義科目、歴史文化演習は演習科目です。講義と演習が組み合わさって、はじめて歴史学という学問の骨格が分かって来ます。「なぜ」と問うことから学問が、そして歴史学も始まりますので、些細な疑問でも疎かにせず、疑問を突き詰めていくことが大切です。しかし、「なぜ」には優れた「なぜ」と凡庸な「なぜ」があります。優れた問いかけができるかどうかは、物事の把握力・理解力の差異によってある程度決まって来ます。講義科目では中国史の大きな流れを、歴史学入門では中国古代史、中国史では中国近世史を事例に見て行きます。大きな流れを把握することこそ、優れた問いかけをするための大前提だからです。演習科目では『明史』神宗本紀を軸として、漢文史料の読解を練習します。漢文は中国語では古代漢語、つまり、中国語の古文になります。歴史学においては、当該時期を知るためにその時代に残された記録を調べていくことが基本です。従って、読解は単に漢文が読めるようになるということに止まらず、当時の政治状況という文脈でその意味するところを汲み取れるようにならなければそれこそ無意味です。演習を通して、はじめて歴史学研究の世界に足を踏み入れることができるのです。

~ゼミについて~

 3年時からはゼミが始まります。3年生の間に基礎的な研究文献の読解を通して、研究テーマに対する理解を深めていきます。また、史料読解を通じて、歴史学研究の手法を修得していきます。ゼミは4年生と合同で行いますし、大学院の研究生も参加することがあります。様々な学年の学生が集まることで、ゼミは知的な刺激に満ちた場になります。ゼミにおいて共通したテーマは設けません。基本的にそれぞれの研究テーマを持ち寄って、みんなでああでもない、こうでもないと試行錯誤していきます。結論が出ずに次回に持ち越しになる問題も続出ですが、未知の問題にぶつかり「分からない」ということが「分かる」だけでも、学問的には大進歩なのです。

~卒業研究について~

 卒業研究は3年次にゼミがスタートした時から始まっています。ゼミ生一人ひとりのテーマが2年の時間を経て、卒業研究へと結実していきます。決して4年生になって慌ててテーマを探すことはありません。毎週毎週積み重ねて来た思考が自然と形になっていくものです。中国史学ゼミナールですから、選ばれるテーマも中国古代の王朝から近現代まで幅広です。ゼミ生によっては朝鮮半島の歴史、東南アジアの歴史から現代事情まで選びますが、史料読解によって史実を形成していく学問的技術は同じですから、テーマが過去でも現代でも(未来はないかも)困ることはありません。

~教員の研究について~

 ゼミでは中国史・東アジア地域史の多様なテーマについて指導していますが、教員として明朝(1366~1644)の歴史について研究しています。現在の中国の原型は明朝に求められます。学生の頃より現在の中国に大きな関心を持ち続けて来ましたが、目前の事を理解するためにはある程度、その起源までたどらないと分からないと考え、その当時の指導教授の進めておられた研究に刺激を受けて、明代史を研究するようになり、その面白さにのめり込んで行きました。14世紀、北半球の中緯度地帯が寒冷化します。そのことによって、黒死病などの感染症が蔓延するとともに、災害が頻発します。農業生産は落ち込み、社会混乱の中で当時の覇者であったモンゴルの世界支配は崩壊して行きました。明朝はその後の中国において農業を復興させることによって登場した王朝でした。皮肉なことですが、この明朝は17世紀、再び寒冷化が起こると、外圧と民衆叛乱の渦の中に飲み込まれて滅亡してしまうのですが、明代を通してそれほど気候が良かったわけではなく、災害は頻発しました。また、辺境地帯ではモンゴルやジュシェン(女真・女直・満洲族)、倭寇からの襲撃に備えるため、膨大な数の軍隊を駐屯させなければならず、国家運営において軍事が占める比重は大変大きいものがありました。明朝政治において軍事はいかに管理されて来たか、政治の文脈の中で軍事を問うことが教員の大きな仕事です。

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