シミストその1:ムッシュー・オワリー

 「シミスト(Chimiste)」とは、「化学者」を意味するフランス語である。フランスはその歴史において多くの有名な化学者を輩出してきた。ルイ・パスツールもその中の一人である。パスツールというと、生物学者や医学者としてよく知られているかもしれないが、彼は発酵や狂犬病に関する研究の前に、酒石酸塩の結晶には鏡像体が有り、一方の結晶は偏光面を時計回りに、もう一方が反時計回りに回転させることを発見しており、これは報告されている中で最初の光学分割である。このことは後の化学における最も重要な概念となる「キラル」ひいては「立体化学」へと結びつくわけだから、現代で言えばノーベル化学賞級の発見である。
 そのパスツールの名言として、「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」というものがある。そして科学者にも祖国がある以上、その国の文化に影響を受けずにはいられないのである。そういうわけで、僕が出会ったフランス人の化学者達も、フランスという個性的な国の影響を受けた、個性的な人達ばかりだった。今回からは、僕の出会ったその個性的なシミスト達について書いていきたいと思う。

 最初の人は、ムッシュー・オワリー(Oiry)。彼は僕が所属していた研究室で働いていて、年は僕の想像するところ大体60歳くらいで、2007年に退官した。彼は毎日実験していたから、初めの頃は技官として働いているのかと思ったが、彼は彼独自のプロジェクトを持っており、誰かと協力して働いているわけではなかった。しかし学生に化学を教えているわけでもないので、教育職についているという風でもなかった。フランスの行政機構は複雑極まりなく、大学の研究室内にもいろいろなポジションがあって、その昔、研究室の人員のリストに彼のポジション名が記載されていたが、僕の知らないフランス語の略語で記されていたので、今でも彼がどんなポジションにいたか知らない。モンペリエ大学では40年間働いていたらしく、よく化学科の大ボスと二人で仲良く話をしており、大学の有名な先生の昔話を知っているところからも、実はすごい人なんじゃないかと僕は勝手に思っている。
 元々彼が使っていた実験台を僕が使うことになったので、試薬や実験器具など実験に関することについては必然的に彼に質問しなければならなかった。さらに、彼の実験台は僕の実験台の後ろで、しかもフランス人のおじさんの御多分に漏れずおしゃべり好きなので、自然に僕は彼の毎日の話し相手になってしまった。彼との最初の会話の時に「日本人はあまりしゃべらないと聞いていたが、お前は全然違うな」と言われたので、ここで負けてはならぬと思い「フランス人はよくしゃべると聞きましたが、あなたはその通りの人ですね」とすかさず切り返したら、彼は笑っていた。
 とにかく人に実験を教えることが好きで、僕が実験をしていると、後ろからじっとこちらを見ていて、何か実験でおかしなところを見つけると、すぐに「セパボン(C’est pas bon)」と言いながら僕の方に近づいて来て、いろいろ教えてくれた。
 彼からは実験のことだけではなく、フランスでの生活一般のことについてもいろいろアドバイスをしてもらった。かつて僕の部屋にゴキブリが大量発生した時、彼にそのことを話したら、その昔彼が合成したという殺虫作用のある化合物をくれた。ちなみにこれは白い粉末状の物質で、ゴキブリがよく出現する場所にふりまいておけば、ゴキブリは自然と消えると言っていた。これを使用した同じ時に親が日本から送ってくれたゴキブリホイホイも使い、それからゴキブリは消えたので、彼の化合物に本当に効果があったのかどうかは分からない。
 前述したようにとにかく話好きで、話し始める時は決まって「ノルマルモン(Normalement)」と言うところは、ピーター・メイルの『南仏プロヴァンスの12か月』*に出てくるムッシュー・メニクーシそっくりである。そういえば、プロヴァンスとモンペリエは距離的にも近い。
 そんな話好きのおじさんであるが、僕の博士論文審査会の時に最初に会場に来てくれたのは、ムッシュー・オワリーである。多くのフランス人は時間にルーズであるが、彼はなんと15分前に会場に来てくれた。さらに東日本大震災の時に、すぐに僕にメールを送ってくれたのも彼である。こういうフランスのおじさんが僕の近くにいてくれて、僕はつくづく運がよかったなと思うのだ。

*編者注 :『南仏プロヴァンスの12か月』 (ピーター・メイル著、河出書房新社)
      イギリス人の著者が、移り住んだプロヴァンスで独特の気候や風土を満喫し、
      地元の個性的な人々と触れ合いながら生きる歓びを綴った1989年初版の大ベストセラー。
      世界中で一大プロヴァンスブームを巻き起こした。
ムッシュー・オワリーと筆者
↑ 研究室のメンバーと。
  ムッシュー・オワリーは二列目左端。最前列右端が筆者。